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108の煩悩。

Art project.

転移。

2009-11-27 | つぶやき。
(photo by Andrey Grebrev(Russia)


「転移」(transference):転移とは、心理療法の中でおそらく最も重要な概念です。
これはフロイトによる偉大な発見のひとつ。
彼が患者達を研究し始めると、驚いたことに、これらの患者は次々に彼に恋心抱くのです。
ここが彼の立派なところですが、フロイトはこのように敬愛の念をかき立てるのは自分の人格が素晴らしいからではないと悟りました。
そうではなく、フロイトと向き合うことで、患者は自分の中にある「劇場」に登場する影響力の強い人物と対話を交わしているのだと気付きました。
これは通常、幼少期に遭遇する重要な人物、つまり、両親、学校の先生、そして兄弟姉妹などです。
転移は、幼少期の初めの行動が成人してからも継続する事を意味する心理学用語です。
フロイトが意味したのは、誰でも過去の人間関係の構図を現在に持ち込み、これを現在の人間関係の上に転写するということです。
-ケッツ・ド・ブリース- 




背中が痒くなった。

孫の手があればいいのだが、ないので物差しで代用する。

そんなことをふと思った。

そのうち時が過ぎ、本当の孫の手とはどんなものだったか忘れた僕は、物差しは長さを計ると同時に、背中を掻くものとして認識し、僕の中では物差しという孫の手が出来上がる。



形容詞は、それそのものよりも、その意味する所の情緒的機能の働きを含めて本物となる。

例えば父親という形容詞は、威厳的なものと安心感である場合もあれば、暴力的で怖いという、どちらの情緒の形容になるかは、その形容詞的本物の記憶に左右される事も多いだろう。

尊敬や愛や好意や否認の情緒の指すところの、その形容詞的存在は人それぞれだとも思える。



脳腫瘍の為に、脳の情緒を司る部分の切除を余儀なくされた人は、自分で物事を決められなくなるという。

つまり、人が何かの決断や決済をする際に優先されることは理知的な部分ではなく、情緒によって後押しされる必要があるというわけだろう。

駱駝の憂鬱といわれるように、飢えと渇きで瀕死の駱駝は、水と食物を見つけてもそれが駱駝から等間隔の左右にあれば、立ちすくみどちらにもいけずその場で死ぬ。ただ誰かがどちらか片方に少しでも押してやれば、駱駝は先ずそれを先に補給し、次に移ることで両方を確保する。



何かを重ねて見たり、置き換えたり、転移させてみることで、僕達は情緒の安定を保とうとしているのかもしれない。


物差しがなくなれば、僕はきっと背中が痒いことにいらいらしなければいけないだろう。



本質を知ることに越したことはないが、それが絶対に本物でなくてはならないということなく過ごせる柔軟性、いやむしろ適当さといえるような部分を持ち合わせて、それを使いこなすことは精神衛生上にも理に適うのではないか。

適当な駱駝は適当にどちらにも転べるのだ。


潜在と顕在。

2009-09-04 | つぶやき。
photo by unknown


人の持つ能力とは偏在しているものだろうとおもう。

偏在し、潜在しているものを顕在化するためには、実行というアプローチが必要である。

潜在している各人のその魅力を顕在させるためには、どうしても「やってみる」力というものの助けを借りなければならない。



EYEさん。ご参加有難うございます。



僕は思う。

実力と実行力は違う。
実力はあっても実行力が無ければ、それは顕在化することはない。
逆に潜在する実力の影は薄くとも、実行力があればそこには何かの見るべきものが生まれる。
実行力を駆使して実行しても、その結果がおもわしくないのは実力の所為ではない。
そうではなく、実行すべき事柄やレベルではなかった可能性が高い。
実力と能力もまた別物である。
実力は誰にでもあるが、能力はその実行力によって実行されたことの結末で判断されるものだ。
実行力が無ければ実力は顕在化せず、顕在化しなければ、能力もまたイメージの代物でしかない。
他人を見る目だけではなく、自己に対する評価においても、私には実力も能力も無い、と落ち込むのは間違いで、実行力はどうであったか、そもそもその実行は、正当なものなのか、という問こそが重要なのである。

例えば、「数学が得意」という潜在意識は、それをどれだけ勉強できたかという実行力で顕在化する。
その能力評価は、知識欲なのか、受験に活かすのか、指導者にまでなりたいのかというレベルによって評価され、知識欲にせよ、志望校に受かるにせよ、指導者になるにせよ、その結果は、そのレベルに到達できているものかどうかと言う、顕在化された能力という現実によって生殺与奪が行われる。
潜在能力ということばはあっても、潜在実力と言う言葉が無いのは、この辺に由来しているように思われる。

然るに潜在的能力とは、誰にでも備わっているものであるということを確信しなければいけない。潜在しているものを疑うのではなく、その顕在へのノウハウを疑うべきである。



何かを探し見つけると言う、かくれんぼは楽しいし夢中になれる。

それは僕達人間が、好奇心に充ちた生き物であるということを教えてくれる。

大人になった好奇心を本当に満足させるものは、潜在している未知の自分を、上手に顕在化させられたことで得られるご褒美、ドーパミン系ニューロンの活性化こそが、希望と昂奮を与えてくれそうだ。

それは、セックスやドラッグと同様の脳内活性化であり、高いモチベーションの源だといわれる。

何度も繰り返すほど健全でおもしろい遊びを見つける為には、自分が鬼になることを厭わず、かくれんぼを続けることだろう。

第五の定義。

2009-07-25 | つぶやき。
-Photo by Unknown-


生命の4大定義というものがある。

第一は、生きる状態を維持する「セルフメンテナンス」。餌やエネルギー源を得続けるのがこれ。

第2は、DNA(デオキシリボ核酸)の複製や生殖など自らの分身を作る「セルフコピー」。

第3が、外界と自分自身を区切る「コンパートメント」。細胞膜がこれにあたる。

第4が、「進化する力」。

だという。

しかしこの定義だけでは、もともとの生命の起源というものなどは、説明が不十分だという考え方が出てきている。

第5の定義、「ハビタビリティ」と言うらしい。
生存可能性、または生命存続条件と訳される。要は、生命は生命自身で成り立っているのではなく、生命を支える周囲の環境も生命に含まれるという考え方だという。


なるほどおもしろい。




ricoさん。ご参加ありがとうございます。





なにが面白いかと言うと、第5の定義が出てきたことで、「いきとしいけるもの」と「しせししすもの」と「ありとあらゆるもの」との境界が曖昧化され、すべて一緒の「生命」というものの構図になるじゃないか、と思えることだ。

生命とは何か。

摂氏数百度で生きるものもいれば、セルフコピーに失敗する事で、突然変異として生存の可能性を高めるという成功者になるものがいる。

僕たちの身体一つとっても、生命体の宝庫、総合博物館と言えるほどコンパートメントされた生命の集合体である。

これにそれをささえる環境まで生命とすれば、生命では無いと断言できるものなど存在するのであろうか。

共生、相互依存、進化競争、競合依存、存続の為の殺戮と扶助。生命の持つ因と用との凄まじいまでの蠢(うごめ)きのなかで僕らは生き抜き、地球の原住民足りえている。

寄っかかり、反発し、襲い、守り、逃げ出し、浸かりながら永らえている。

それらすべて、種々諸々の可能性と条件に手をあわせることを思い描くことの発端を、この第5の定義は示唆している。


所有と使用。

2009-03-27 | つぶやき。
photo by unknown


世界中のベッドと寝室は、1日の3分の2は空いている。
自動車も1日の6分の5は誰も乗っていないし、動いてもいない。
この無駄には二つの大きな理由がある。ひとつは、我々は何をやるにしても、最大の負荷を想定するからである。
ふたつめは、「所有すること」が正等である事を示す為だけに使うものを「所有」しようとすることが多すぎ、またそのための物が溢れているからである。
-富の未来 R.Toffler-



佐斗士さん。ご参加ありがとうございます。




所有するということも、時間的な概念抜きでは語れない。
お金がない。ということと、お金がある。ということも時間的空間の違いでしかない。働かない子供にお金はないが、働けばお金は持てる。20代はワーキングプアだからといって、その子が40代になってもそうであるとはいえない。
見たことがある紙幣だからといって、誰も人のお金を自分の所有物と主張するような人はいない。
その紙幣が、誰の持ち物であるかという問は、単位概念においての一時的な利用者の特定に過ぎない。




シェアリングという言葉をこの頃よく聞く。

例えばワークシェアリングもそのひとつ。


時間というものは、誰の所有物とも言えないから、使用時間を分かち合おう、という概念だろう。

10時間も12時間も眠っている人に、睡眠は8時間程が丁度いいから、次の人のためにベッドを空けてよ。ということである。

が、ベッドで眠りたい人が多いから、3~4時間の睡眠で我慢しなさい。ということになれば、また話は違う色彩を帯びるだろう。



このようなパラダイムは、上手くいけば、もったいないことを回避し且つ、インフラ、エネルギー、ナレッジの平和的有効活用になるだろう。

しかし下手をすれば、想定される負荷に応じて、「所有する」ということで維持されてきた、責任や気概、努力といった、創造性や向上心というものを阻害する遠因をも生み出しかねないもったいなさになる。



進歩的な試みは、常にその足を引っ張る怠惰なものをも産み出す。


かくして、所有感覚と使用感覚の成熟度が図られることになる。



僕らは、所有したいわけではない。使いたいだけなのだ。という概念は、

僕らは、使いたいわけではない。所有しておきたいだけなのだ。という概念を抽出し認識対比してみるとわかりやすい。

またもやそれは煩悩的あいまいさとででもいうべきものが、所有と使用というものの境界線上に現れてくる。

おおいに立場によって異なる様相を呈するだろう。



所有しておくべきは、それそのものではなく、そのものに象徴される情緒(機能)的なものである。

過剰な情緒は、無駄を産む。つまり使用されなくなった情緒は、もはや情緒ではなく、惰性である。

惰性の所有においての無駄は、開放し分かち合わなければ、全体にとっての損失となる。

塩漬けにしないで開放することだろう。


物は溢れ、時間は死ぬまである。

所有と使用の関係性に富を見出すチャンスである。

所有している事がアドバンテージであった時代は去ろうとしている。


賢い使用者となることで、僕らの未来の富は、もう既に全員分が用意されているのではないだろうか。


子供にとって、親のいないベッドルームは、秘密の遊びに使う大事な場所である。

学習と脳みそ。

2009-01-06 | つぶやき。
photo by unknown


ある種の人々は、脳に影響を与えるある種の学習は、
予想外にすごい、あるいは重要だ、強力だ、とほのめかし、
機械の中の幽霊に対する人々の信仰を上手く利用する。

しかしそれは間違っている。学習はすべて脳に影響を与える。
学習が「どのように」脳に影響を与えるかを科学者が発見するのはまちがいなく刺激的であるが、それによって学習そのものが広まったり深まったりするわけではない。(スティーブン・ピンカー)




なみさん。ご参加有難うございます。




脳みそが若返るという触れ込みの学習方法がある。

本当であるなら、一生懸命にその学習を継続すれば、小児のように若返るはずだ。

はたして、積み重ねた経験脳を捨てうるほどに脳年齢の若返りは、問題を解決するのだろうか。

僕は知っている。そのような学習に時間とお金をかけなくても、年齢と共に、幼子のように、若返った先輩を。


計算を早く的確に、記憶をたがわず明確に、というその学習方法は、機能的活性化への影響を与えるひとつの学習方法ではあろうが、それそのものが、学習するという本来の意味での広がりを開発するわけではない。


子供がなんにでも口をつけてみるという学習への貪欲さが、学習経験を積むことによってつけなくなるのは、自然の脳みその発展形而である。


脳みそは学習という食物を糧に若々しさを維持するものだろう。

新たな学習の広がりと深まりのたびに、そのみえざるすがたを刻々と変容させていく部位が脳みそである。

手段であって結果ではないことに騙されてはいけないとおもう。
事実ではあっても真実とはいいがたいこと、幽霊を信仰するような愚をさけるためには、学習そのものの質を問うことである。

身体に必要な栄養を食物から摂取する為には、消化しなければならない。
口に入れただけで、栄養にはならないのである。

僕の脳みそが栄養バランスを欠いているとすれば、それを補給する種類の学習が必要とされるのだ。

だれにでも汎用な、重要で強力な学習などはないのである。

四六時中活動発展進化変革更新を続ける脳みそにとって、学習題材はそこにあるもの全てである。そのすべてが脳みそに影響を与える。

どんな学習でも、脳は、ノーとはいわず、受け入れ処理するようだ。

取捨選択、重視軽視、伸張停止。学習題材に対する反応は様々。

年相応、立場相応、人相応の、脳みそは、そうしてできあがる。


しかしだ。「こころ」のできあがりかたがわからない。

つまり、何故人は、「頭ではわかってる」といいつつこころに逆らえないようなことを経験するのか。

知っていながら、泥水に口をつけたがるのか。

煩悩とは言えど煩心とは言い表さなかった。そのあたりに心と脳との主体的な違いが隠されていそうでもある。

こころここにあらずでの学習は幾ら重ねてみても、脳みそを腐らすだけで終わるのはそういうことだろうと思っちゃったりする。


未来。

2008-06-25 | つぶやき。

世の中には、常に2つの対立する勢力が存在する。過去を信奉する勢力と未来を目指す勢力。秩序を維持しようとする勢力とそれを動かそうとする勢力である。

20世紀初頭の、この写真の国は、過去を信奉する秩序を崩し未来を求めた。

未来のために。というイデオロギーの選択は、常にその輝かしい未来を約束するものではない。ということを我々は近代から学んだはずだ。

現状では如何ともしがたいがための状況打破と、よりよい希望の未来への設計は、別次元の作業であることを。




どんぐりころころさん。ご参加ありがとうございます。





この写真の少年のその後辿ったであろう未来は、僕達の過去の教訓となった。

未来とはそういうものだろう。

必ずしも、熱狂は長続きしないし、計画は修正を迫られ、革命者は過去の信奉者となり、権力の澱みは深まる。

過去の、持ちうるものと持たざるものとの逆転のマグマはまたもや、新たな未来を描いてみせる。

それが未来の成り立ちの諸要素として、可能性を構成する。

必然を求めすぎるものが、未来の祝福を得ることは難しいだろう。

個人レベルにおいてさえままならぬ未来というものの、大衆を率いる国家において、その時点現在の考えを機能させ続けることを前提に未来を描くならば、それはすでに計画崩壊の種を養う栄養になるだろう。



「「大衆民主主義」はせいぜい300人くらいの村レベルでしか成立しない。これは我々の神経システムが他人の顔と名を一致して覚えられる限界と重なっている」
-リュフィエ-


リュフィエがいうように、大衆がユニットとして、未来を協同志向できる単位は300人程度が限界なのかもしれない。

個人個人の未来と、数億人の未来と、数十億人の人類の未来との、統合されたカオスに整合性を持たせられるようなもの、経済であり、文化であり、政治手法であり、テクノロジーは、未だ持って良性の可能性を賭けうるほどの未来を提案してはいない。

いや、もしかすれば、既に指し示されているかも知れない。ただ、その道標は対立する勢力同士の活動が産み出すノイズに打ち消されてしまい、海の底に漂っているようだ。



生きていれば90歳前後にはなっているだろうと思われるこの少年は、今どのような未来を思い描いているだろうか。

このもと少年にとって、未来とは、死生観そのものであるかもしれない。



日々ラッセル車の如く切り開かれつつありながら、それとは気付かない未来というものは、エキサイティングで魅力に満ちている。

何かが起こるということだけではなく、何も起こらなくても、何も起こらないということが、起こっているのである。



僕に一本の電話が入った。僕は未来を耳に当てるのである。


もしもし?


美徳と悪徳。

2008-06-21 | つぶやき。
-photo by unknown-



恋人同士のささやきはいつまでたっても飽きることはない。
なぜなら、お互い自分のことしか話していないからだ。
-La Rochefoucauld-




自分に酔うのが悪徳で、他人を愛するのが美徳だと断言はできないだろう。

自分に酔えない恋愛は、ある種の詐欺だともいえる。

恋愛の心地よさは、認め合うところにある。認めるということは、尊敬や羨望や所有という欲望を満たしうるものが対象でなければ認めるわけにはいかないからだ。

しばしば人は、悪徳を凌駕する為に美徳を犠牲にしたりもする。

巷で起きる詐欺事件などは、人間の徳性に関する部分をうまくついているとも言える。

また、人を騙そうと考えている人間ほど、人に騙されやすいという事実もある。

騙されない為の最良の方法は無知である。とロシュフコーさんもいっている。

無知とは、軽薄薄弱のことではなく、その題材においてのいやらしい欲のことであろう。騙す人間は人を騙す為に欲徳を刺激するのが常套手段であるから。

それが美徳であろうが悪徳であろうが、欲のない人間はまず騙されない。

得をするリスクと損をするリスクは同等なのである。



自分のことしか話していない恋人同士は、そういう意識においては、全く無縁なのである。二人はそれだけで欲望が充分に満たされる関係なのである。であるから恋人と呼べるものだろう。少なくてもその初期においては。

お互いが相手の言葉を聴き、言葉尻を捉えて、揚げ足をすくう様になると、もはや恋ではないといえるのかもしれない。



男はいつも女に変わらないでいて欲しいと願う。が女は変わる。
女はいつも男に変わって欲しいと願う。が男は変わらない。
-unknown-


運命共同体においてさえ、徳性へのニーズにはずれが生じる。



人が美徳を意識するようになると、悪徳も意識をもたげ挙げてくるような我々の構造上(按分された二つの脳)の問題は、オポジットオポチュニティ(反対側の可能性)への突破口でもあろう。

僕達を失敗と成功の狭間でもてあそぶ煩悩もこのへんにある。
ささやきあえる恋人同士には見えないものである。

師のたまわく。汝、それをもって徳とせよ。






R!nAω・)。+゜さん。ご参加有難うございます。






男女という至極個人的な関係性の中のみならず、団体的・社会的な関係性においても、美徳と悪徳という観念の相克はいたるところに表出する。

それは常にそれを意識せざるを得ない状況が僕達の周りには満ちているからだ。

片側の思う美徳がさる側からの悪徳に映るとき、その関係性は崩壊を始める。


いつまでも恋人同士のようにはなかなかいられないからこそ、恋は魅惑的なのである。

そしてつまでも盲目で無知で居たいとの願いは、なかなか許されない。

美徳と悪徳。天使と悪魔は、僕達人間の構造上セットになって出てくるのである。


仕事と恋に落ちてはいけません。という箴言も、このあたりに本音がある。


無知な悪業をもって悪徳とはいえないだろうし、狡賢さからの功徳はもはや美徳とも呼べないものであろう。


無知な状態(欲得の感覚のない状態)から巧緻な知恵(騙し欺く事を正当化する状態)に至る過程において、美徳と悪徳を選別する事は難しい。

そこにも無意識の自我の入り込む余地が多いにあるからだ。

僕が謂っているのは、悪代官や犯罪人のような一部の人間のことではない。

誰にでもある、美徳と悪徳の、徳の部分の養い方の難しさについてである。

人のみならず、自分を欺いてしまう危険性についてである。



間違えているかもしれない。しかしそれは、僕の不徳のいたすところなのである。



声明。

2008-05-07 | つぶやき。

仏僧達の声明のリズムがこだまする。


あるリズムは、我々の意識におけるある秩序の生成に大きく関わっているという。

声明のリズムは、長い年月をかけたリズム工学ともいえるものに基づいた、精神的なある秩序への完成された福音のリズムだとも言えそうだ。

ヘルツに値する、声帯音域、真言といわれる言語的シンクロニシティと相まって、その上手な表現者の声明は、偉大なるほど人をひきつける。

メロディと呼べそうなものは、見当たらない。その背景にあるのは、なんといってもリズムである。

表を感じ、裏を識別する能力で1ビットと言われる。

音を感じる聴覚をビット数で表すと1万ビットであるらしい。

つまりは、1万ビットの認識反応において、ある秩序だった感覚に対する破綻を極力押さえた、音楽であることが、名曲と言われるものだろう。

仏僧たちの奏でる声明が、僕のある感覚を秩序立ててくれているようだ。名曲なのである。





葉隠れ a.k.a あつさん。ご参加有難うございます。






ただ、その秩序だった感覚が、なぜ、ある統合感をもって僕が魅力的に感じるかを、僕自身が認知のブレイクダウンを行える訳ではない。

それは、人間の持つ素晴らしい能力の発端を垣間見せるものでもありそうながらも、そんな能力が自分にあるとも思えない。


乗れるとは謂いがたいながらも、感性的にそのりズムに乗っていることが心地よいのである。


小鳥のさえずり、小川のせせらぎ、大海の怒涛に木々のざわめき、都会の喧騒、雷鳴のとどろき、驟雨の静寂、北風の嬌声、エトセトラエトセトラ・・。


溢れるリズムに感覚を浸しながら、それをそれとは気付かないリズムを刻む生態系。


落着くとこに落着くのか、落着けるとこに落着くのかは別にして、僕達は無意識の内にも、意識的な感覚の受容体であることは確かなようだ。



声明には、やはり、よく通る低く鍛えられた喉の構造が不可欠だと思う。
視覚的には、できれば長髪よりも坊主頭が僕は望ましい。

声明のリズムは、僕にとっての欲求と煩悩に関わる顕著な自己へのもぐらたたきの役割を果している。



強い無意識的自我とでも呼べそうなものへの訴えかけには、リズム感覚というものとの同調が欠かせないようだ。


祈るということ。

2008-04-23 | つぶやき。
[Photo by Misha Gordin]


祈りの地を巡ることが、一つの儀式になっている人々は別にして、普通のあるカテゴリーに囚われることの無い僕にとって、祈りの地を巡る行為は、自発的な魂の要望に答えるものだ。

その魂とは、おなかがすきすぎると無くなる程度に、健全且つキュートなものなのだ。

ある思想と呼べるかどうかもあやしい。

昨今の教育やビジネスの社会では実用性という非常に強い思想が働きやすくなっている。

実用性は、一つ間違えば、結果重視偏重の合理主義に陥る危険も内包する。

プロセスに含まれる、穏やかな感受性や、尋(ひろ)い見識への醸成などが、おきざりにされたりもしやすい。


ただ思想的背景の全く無い魂は、多分あり得ないだろうとも思われる。
魂の無いなんちゃって思想はもしかしたらあり得るかもしれないが。


祈りの地を巡ることを欲する魂は、祈りというものに対する思想を体現するためのプロセスに相違ない。

独り言を言った事は無いような人がいないように、なにかに祈りを捧げたことが無い人もきっといないだろう。

体調が悪くなったある人は、布団という祈りの地で、早く直りたいと祈らないわけは無い。

手を合わせて祈るかどうかは、足を合わせて祈るわけにはいかないからに他ならず、どのような形式を持って祈るのかの、問題ではない。



強制されることの無い魂や思想は、一陣の風を自らに与える。

僕達の肉体に存在する、非常に高い振動数と低電圧の電磁場は、僕等自身が神経的指示系統上でコントロールする事を許してはくれない。

合理的で実用的に魂や思想を運用する事も、コントロールの外にある。

意識を超えたものたちに栄養を与えるプロセス上のビタミン剤が祈りではないだろうか。

いかような地で、いかような祈りを、いかなるものに、いかように自らで捧げるかは、やってみなければわからない。

それが、僕にとっての祈るということのようにも思える。


祈りの地を巡ると、なぜか ちのめぐり がよくなるように思えてしまうのである。






◎→。*゜さん
ご参加有難うございます。





社会事例。

2008-04-22 | つぶやき。

僕は煙草をやる。

煙草に関する事例的社会状況はここ数年来大きく変わった。

今日も元気だ煙草が美味い。という過去の政府のプロパガンダはどこにいった?

このごろは、うまいのにまずい状況になってきてしまった。

煙草代への税金はすばらしく掛かっている。

酒もそうだが、べらぼうな税をかけられるものを好むのは、所謂能動的喫煙者という側面もある。

だから。もし。たばこが本当に悪者であれば、受動喫煙者の保護や救済に優先してつぎ込んで欲しい。

ついでに、排ガスや交通災害の被害者には、まず一般道路財源を優先して回すべきだ。

偽宗教家に騙された人の、救出は難しいだろうなぁ。税免除だもの。

食堂でうける、きつい臭い強烈な香水被害を防ぐには、どうすればいいのか僕にはわからない。


能動的な人と受動的な人との相互扶助の精神抜きには考えられない問題となる。






KANANさん。ご参加有難うございます。






石綿、所謂アスベスト対策の拠出金が、労働保険において、企業社会全体から集められている。

被害者の労災補償に充てられるのだろう。

社会的には、そのような相互扶助の精神はその基幹をなすもので大変よろしい。

が。だ。

知らずながらも能動的に喫煙した従事者への労災補償原資はいいとして、非労働者である地域住民、住居者などの受動的喫煙者への配慮はどうなる。

相関因果関係云々で、救済もおぼつかないのではないだろうか。

先の薬害エイズや肝炎の事例を見るにつけてもそう思わざるを得ないではないか。

相互扶助の精神に立ち返り、従事勤務者以外の、災難を受た人々を助けるのは、税である。

その元凶に成ったモノやコトが生み出された処の税であろう。

どうもその使い方や集め方に不公平漂う感があるのは、事例的にも否めないのだ。




どちらにしても人の営みの中で生まれるものをその営みの中で、相互扶助しあうことが、社会の使命だ。

致し方なき災難者を助けられないような仕組みを持って、先進社会だなどとは言いようが無い。


社会事例とは、文字通り社会によって変わる。

どのように事例が起き、それにどのような反応が起き、どのように対処しているのかは、その社会の成熟度、寛容度、知性の問題である。


今の、現在の、今までの、社会事例を鑑みて、次の、今後の、将来の社会を思うことは、一社会人として、コミュニティの一員として、誰にでも等しく与えられる使命なのである。



と。煙草でもくゆらせながら、酒を片手にじっくり考えてみるのも悪くはない。



形而上。

2008-04-01 | つぶやき。

第一次的なもの(根源的なもの)は、自我ではなく諸要素である。諸要素が自我を「かたちづくる」。

私(自我)が、緑を感覚する、ということは、要素緑が他の諸要素-感覚・記憶-のある複合体のうちに現れるということの謂いである。

私が緑を感覚するのをやめたり、私が死んだりすると、諸要素はもはや従来どおりの結合関係においては現れない。それだけの話である。

観念的・思惟経済的な、突発的でない統一(単位)が存在しなくなったということだけの話である。

自我は、不変の確定した、先鋭に区画された統一ではない。

不変性、他から確定的に識別され、先鋭に区画「されうること」、こういったことはどうでもいいのである。

-E.マッハ「反形而上学序説より」-





ハチさん。ご参加有難うございました。






難解な哲学に組するつもりは、滅相も無いが、形而上という物理的見地では説明できかねるなにものかの存在に対する、易経のごときアプローチは、もうひとつの根源的なものに接するチャンスを与えてくれる。


「つま先立ちて天を掴もうとジャンプする中年の女性」を、「つま先立ちて天を掴もうとジャンプしない中年の女性」と区別する事は容易である。

しかしそのふたりの女性に明確な自我の違いを見出すことは、難解なのである。

形而上の問題は、反形而上という立脚点から、ヒントを拾い出せるのではないかと思えた由縁である。

つまり、「どうでもいいこと」が、人を触発する動機付けに対する役割について考えられるのではないかと、煩悩を疼かせるのである。


物理的なアプローチと、その解明は、様々な二次有効利用を産んできた。

ここに、形而上のアプローチが、普遍的な何かを産むのかという、問を、「どうでもいいこと」にできない僕の自我がある。

つまり、たくさんの無駄や、思索違いの狂信を生む可能性がありながらも、あえてその魅力に抗せず、その思考を捨てられないこの僕自身が、形而上の「そういうこと」なのであろう。

「そういうこと」と「どうでもいいこと」は、僕(自我)にとっての、物理上の問題と、形而上の問題。ということで、そう思わすことの諸要素は、僕がそれをやめるか、死ぬかすれば、もはやその結合関係は消えうせるのだ。



・・・。


などとのたまう自我。

どうもこの写真の女性が、親戚に思えてきた。



E=mc2

2008-03-24 | つぶやき。

Eはエネルギー、mは相対値が計測されている特定の質量、cは与えられた一方向への放射の速さ(半径として二乗される)。-アインシュタイン方程式-

エネルギーと質量の関係を説明するらしいあまりにも有名な方程式である。



エネルギーとは、つまりは、熱量に換算される。

熱現象には、非可逆性が見られる。例えば、放置された状態の場合、熱は温度の高い方から、低い方へしか流れない。他と接触が無い独立した系の中では、決して減少しないという。

このような、ある条件の下で、存在可能な状態の多少を表す言葉が、エントロピーといわれる。


要領は得ないが、非可逆性とは、逆流はしないということだもんで、通常状態では熱エネルギーは常に失われる方向にあるということだけは、なんとなく判る。




LALALAさん。ご参加ありがとうございます。






つまり、特定の質量がするなんらかの活動の二乗の勢いで、エネルギーは生まれ、そのエネルギーは、その他のなにものかと接触のある限り、常に減少の危険に晒されている。ということなんだ。

減少の危機があるとすれば、増大の好機を創らねばならないということだ。

それが、エネルギーを必要とするものの宿命だ。



太陽からのエネルギーを根幹の動力源として僕達は存在している。

相対的な質量が丁度いい具合で、エネルギーの供給を受けている。その全ては、所謂放射によって届けられる。

人間も同じように、自分の質量に見合ったエネルギーを取り込み燃焼させ、排出している。

つまり、質量と放射スピード等の差を考慮しなければ、太陽も核爆弾も人間も動植物も同じ燃焼系である。

太陽の排出するエネルギーを二次利用する事で、地球は成り立っているわけだ。

要するに太陽の出す、我々で言う発熱・発汗や排泄物に当たるものである。

もとい。


取り込んだ若しくは蓄積されたエネルギーと、奪われた若しくはエントロピー的減少エネルギーの採算が赤字になれば、お陀仏である。

全てはお陀仏の方程式なのかもしれない。


物理学というものは、一体物理を探求する。僕達もある種のブツである以上その方程式と無縁ではない。


エントロピーにおいては、「接触しない」独立した系においては、決して減少しないという。

もし宇宙全体を、「それ以外」とは接触しない独立した系として、眺めるならば、それ自体は、けっして減少していないのかもしれない。


さすが E=mc² である。

本質はさっぱりわからなくとも、闇雲に遊べる大した数式である。



現実について。

2008-03-22 | つぶやき。


「現実性は、思考の尺度である。それは我々がこの世界で立場を明確にする手段である。現実のときの流れは、我々が理解できるものが何であり、また理解できないものが何であるかをはっきりと示す」 -Moholy Nagy-



Swingさん。ご参加ありがとうございます。




「現実(reality)または現実的な富(real wealth)におけるリアル(real)という言葉は王立(royal)または王権(royalty)を意味するスペイン語に由来する。

王または女王が個人的に承認したことが真実だった。

リアルとは、社会経済の権力機構が現実(real)だと定めたものである。リアルとは、抽象的な法律上の存在である企業のような、法が認めた虚構である。

不動産(リアルエステート)は王の地所(ロイヤルエステート)と同義である。」 -Buckminster Fuller-




「現実の政治的な活動というものは本質的に、策略家と、特定の利益の代表者と、口先ばかりで何も見ていない自惚れ屋たちの不条理な騒ぎでしかない可能性もある。」 -unknown-




僕達には、手にしている現実と、手に取ることの出来ない現実と、それを垣間見ている現実という現実がある。

現実性や現実的といった概念によるそれらの現実認識が、僕達の立場上の理解というものの定義付けを行っていると言えなくも無い。





ピンナップガールは、笑いかける。

現実に笑いかける。現実性をもった現実的な姿の偶像として。

しかし僕達は、その女性そのものを、現実として理解しているわけではない。


ありていにいえば、ピンナップする。という行為は、そこにある現実性を持った、現実的なものは、現実ではあるけれどもそれそのものとは言いがたい現実らしさに触れ合うものだ。



思考の尺度が、拡張されないかぎり、いつまでも古いピンナップを眺め続けることになるだろう。

人生をロイヤルティではなく、リアリティに変換しない限り、必要以上の妄想をピンナップに抱き続けるに違いない。


現実には、セルロースという繊維素材の水素結合による化合物の上に、インクドットによる配置上の意図された組み合わせの集合体が、ピンナップガールの本性である。




現実的には判っている。

それでも現実性は伴ってしまうのである。

僕達は、この現実に、鼻の下をのばすことをやめられないのである。


おもわずも虚構に膝間づいてしまうのである。

現実よりも現実の可能性のほうについ惹かれてしまうのである。

性に騙されるのである。性懲りもなく。



ああ。煩悩。



「あなたはそれが、ひとつの現実だと思うかね?
それはまるでそんなもんじゃない。それはただの自然現象にすぎないんだよ。」






進歩ということ。

2008-03-08 | つぶやき。


ホセ・オルティガ・ガゼットは、「人間が新奇な人工遺物を熱心に追求する背景にあるのは、生物的な「必要」ではない。我々は、火や道具や車輪がなくても充分に暮らして行けるし、実際我々以外は、これらなくして生きている生物種ばかりだ。にも関わらず、我々は新種の事物を作り出すことに膨大な思考とエネルギーを傾けることを選ぶ。したがって、テクノロジーは、「余分なものの生産」と定義するのが妥当だ。」といった。




420vibesさん。ご参加ありがとうございます。




前出氏の言う、「余分なものの生産」によってまさしく、これが、ピラミッドを造り、広島長崎を破壊し、人類を月に送り、コンピュータ社会を形成してきた当のものだろう。

テクノロジーの進歩の賜物である。


しかし、我々は、自身として、テクノロジーの進歩に附いていけてるのだろうか。

「よりよき生活」への抽象的な希求でもなんでもなく、ただ剥き出しの好奇心とテクノロジー幻想、実現不可能な機械の夢にうつつを抜かしている間の、いつの間にかに、自分自身ではなく、誰か他人のプログラムに巻き込まれてしまっている。ということはないだろうか。


サーカスの動物が、三輪車に乗せられている。彼らは大抵「うわのそら」で、ペダルを漕いでいる。


前世紀、モータリゼーションという進歩の飛躍期があった。

当時のニュースペーパーのコラムには、以下のような含蓄ある言葉が散見される。

「自動車という、フォードの偉大な平等化の道具は、今や偉大な差別化の道具に成長した。」

「自動車は、みんなの性生活に福音をもたらした。求愛行動を開放し、過激化させた。相手を気軽に拾えるようになった上に、ベッドルームに変わる空間まで提供した。おかげで、求愛における作法も習慣も衣装も、そして性交時の体位までも進歩した。」


・・・。



翻って現在。

もしかしたら、僕はサーカスの動物にはなっていないと言い切れない。

進歩する社会は、人に適応力の進歩を要求する。

適応不全に対する煩悩が、頭をかすめている。



僕らの対応方法はそれほど多くは無いのかもしれない。



観光地などでの人力車の人気が高まっているようだ。


そうだ。他人のプログラムに巻き込まれ、サーカスの動物にならないための手がかりは有る。

奇しくも、過去の進歩の飛躍期にあった、テクノロジーの進歩による、産業化での、大量生産時代に、生まれた、社会の進歩の中で、一部の勝手な進歩は、許さないと、立ち上がった、個人のプロセスを無視された人たちの、その原始的な対応方法がそれではないか。


いわゆる、サボタージュ。である。



僕の携帯電話は、前世紀に作られたものだということを、改めて思っているところだ。





人の歴史。

2008-01-09 | つぶやき。


現代は有史以来、初めて過去が未来を束縛しない時代になった。夢はもはやファンタジーではなく可能性になった。有史以来これまで生まれた人間達の中に、希望に満ちた「今」に生まれたくないと思う人間は一人もいないだろう。私たちの祖先。進歩の希望が全くなかった時代に生きた人々。進歩の名のもとで精神を蝕まれた人々。そんな中にあって、私たちは革命の時代という全く新しい時代に直面しているのだ。幸運としかいいようがない。何もためらうことはない。この機会は何か理由があって与えられたのである。さあ、その理由を見つけよう。


パスカルさんは、「人間は考える葦である」と言った。

コギト・エルゴ・スム(我思考する、ゆえに我あり)と言ったのはデカルトさんである。

言ったか言わなかったかは別として、言ったとされる程の足跡を残したのは、確かである。

近代文明の先駆者達は、考えることで、歴史の未来を言い当てている。

私達が学ぶ歴史は、つまりは人類というものの成り立ち形、つまり思考と行動の変遷の物語である。

前文は、10年ほど前に書き留めたある出版書のなかの一文節。出辞は失念したが。




ありさん。ご参加有難うございます。




歴史の教科書は幾らでもあるが、我が人生の教科書に歴史のエッセンスを入れようとすれば、おのずから考えるという行為が重要になってくる。

一節の文章が、歴史を見る眼を開眼させることも少なくは無いだろう。

おおむね、歴史に人類というものの何たるかを投影させるには、それなりの前提を持たなければなるまい。

つまりは、年寄りのほうが歴史への造詣は深くなる。

が。しかし。ブレイクスルーは、希望というファンタジーを持った「気の若い者達」のエネルギーをメイン燃料とする事も歴史は物語る。

夢と希望とファンタジーには、思考と行動の苦悩がつきまとうのも、人類の歴史であろう。

それは、幸運なことであると思うことにしよう。


私達は、今生きている。

有史以来、生まれては死んでいった、何千億人の人類という種の「個」の思考と行動の「変遷途中の結末」が、現在である。

歴史の人。は過去であり、人の歴史とは、つまるところ未来への希望である。

歴史は変遷する。それもよい方向へ。という希望である。


「終わらない歴史の途中」にある私の思考と行動の、その理由をみつけてみることにしよう。

私は、どこからきて、どこにいこうとしているのか。

何故、私は禿頭なのであろうか。

自分で考えるしかない。

根本的的な煩悩といえるのである。