(photo by Andrey Grebrev(Russia)
「転移」(transference):転移とは、心理療法の中でおそらく最も重要な概念です。
これはフロイトによる偉大な発見のひとつ。
彼が患者達を研究し始めると、驚いたことに、これらの患者は次々に彼に恋心抱くのです。
ここが彼の立派なところですが、フロイトはこのように敬愛の念をかき立てるのは自分の人格が素晴らしいからではないと悟りました。
そうではなく、フロイトと向き合うことで、患者は自分の中にある「劇場」に登場する影響力の強い人物と対話を交わしているのだと気付きました。
これは通常、幼少期に遭遇する重要な人物、つまり、両親、学校の先生、そして兄弟姉妹などです。
転移は、幼少期の初めの行動が成人してからも継続する事を意味する心理学用語です。
フロイトが意味したのは、誰でも過去の人間関係の構図を現在に持ち込み、これを現在の人間関係の上に転写するということです。
-ケッツ・ド・ブリース-
背中が痒くなった。
孫の手があればいいのだが、ないので物差しで代用する。
そんなことをふと思った。
そのうち時が過ぎ、本当の孫の手とはどんなものだったか忘れた僕は、物差しは長さを計ると同時に、背中を掻くものとして認識し、僕の中では物差しという孫の手が出来上がる。
形容詞は、それそのものよりも、その意味する所の情緒的機能の働きを含めて本物となる。
例えば父親という形容詞は、威厳的なものと安心感である場合もあれば、暴力的で怖いという、どちらの情緒の形容になるかは、その形容詞的本物の記憶に左右される事も多いだろう。
尊敬や愛や好意や否認の情緒の指すところの、その形容詞的存在は人それぞれだとも思える。
脳腫瘍の為に、脳の情緒を司る部分の切除を余儀なくされた人は、自分で物事を決められなくなるという。
つまり、人が何かの決断や決済をする際に優先されることは理知的な部分ではなく、情緒によって後押しされる必要があるというわけだろう。
駱駝の憂鬱といわれるように、飢えと渇きで瀕死の駱駝は、水と食物を見つけてもそれが駱駝から等間隔の左右にあれば、立ちすくみどちらにもいけずその場で死ぬ。ただ誰かがどちらか片方に少しでも押してやれば、駱駝は先ずそれを先に補給し、次に移ることで両方を確保する。
何かを重ねて見たり、置き換えたり、転移させてみることで、僕達は情緒の安定を保とうとしているのかもしれない。
物差しがなくなれば、僕はきっと背中が痒いことにいらいらしなければいけないだろう。
本質を知ることに越したことはないが、それが絶対に本物でなくてはならないということなく過ごせる柔軟性、いやむしろ適当さといえるような部分を持ち合わせて、それを使いこなすことは精神衛生上にも理に適うのではないか。
適当な駱駝は適当にどちらにも転べるのだ。
「転移」(transference):転移とは、心理療法の中でおそらく最も重要な概念です。
これはフロイトによる偉大な発見のひとつ。
彼が患者達を研究し始めると、驚いたことに、これらの患者は次々に彼に恋心抱くのです。
ここが彼の立派なところですが、フロイトはこのように敬愛の念をかき立てるのは自分の人格が素晴らしいからではないと悟りました。
そうではなく、フロイトと向き合うことで、患者は自分の中にある「劇場」に登場する影響力の強い人物と対話を交わしているのだと気付きました。
これは通常、幼少期に遭遇する重要な人物、つまり、両親、学校の先生、そして兄弟姉妹などです。
転移は、幼少期の初めの行動が成人してからも継続する事を意味する心理学用語です。
フロイトが意味したのは、誰でも過去の人間関係の構図を現在に持ち込み、これを現在の人間関係の上に転写するということです。
-ケッツ・ド・ブリース-
背中が痒くなった。
孫の手があればいいのだが、ないので物差しで代用する。
そんなことをふと思った。
そのうち時が過ぎ、本当の孫の手とはどんなものだったか忘れた僕は、物差しは長さを計ると同時に、背中を掻くものとして認識し、僕の中では物差しという孫の手が出来上がる。
形容詞は、それそのものよりも、その意味する所の情緒的機能の働きを含めて本物となる。
例えば父親という形容詞は、威厳的なものと安心感である場合もあれば、暴力的で怖いという、どちらの情緒の形容になるかは、その形容詞的本物の記憶に左右される事も多いだろう。
尊敬や愛や好意や否認の情緒の指すところの、その形容詞的存在は人それぞれだとも思える。
脳腫瘍の為に、脳の情緒を司る部分の切除を余儀なくされた人は、自分で物事を決められなくなるという。
つまり、人が何かの決断や決済をする際に優先されることは理知的な部分ではなく、情緒によって後押しされる必要があるというわけだろう。
駱駝の憂鬱といわれるように、飢えと渇きで瀕死の駱駝は、水と食物を見つけてもそれが駱駝から等間隔の左右にあれば、立ちすくみどちらにもいけずその場で死ぬ。ただ誰かがどちらか片方に少しでも押してやれば、駱駝は先ずそれを先に補給し、次に移ることで両方を確保する。
何かを重ねて見たり、置き換えたり、転移させてみることで、僕達は情緒の安定を保とうとしているのかもしれない。
物差しがなくなれば、僕はきっと背中が痒いことにいらいらしなければいけないだろう。
本質を知ることに越したことはないが、それが絶対に本物でなくてはならないということなく過ごせる柔軟性、いやむしろ適当さといえるような部分を持ち合わせて、それを使いこなすことは精神衛生上にも理に適うのではないか。
適当な駱駝は適当にどちらにも転べるのだ。