ブレーズ百周年、想定外に盛り上がっていた。原因は殆どがフランス人で、訊ねてはいないのだがブレーズ友の会のような若しくはアンサムブルアンテルコンテムプランのパトロンの様な人々が別個に集結していた様だったからだ。復活祭でのフランス人率とは全く異なり多数派の感じがした。私が同類の支援者なら話しかけていたのだろうが、今回も寧ろその作品の評価に保留するところもあった。
先ずは一時間前からのレクチューアが素晴らしかった。関係者以外では二三人しか集ってはいなかったが、内容はとても良かった。話し手はSWRディレクターのベルント・キュンツィッヒという人でどこかで見かけた顔だが知己のない人だった。
SWFプロデューサーのシュトローベル制作ブレーズ作曲1958年「レポン」で、当時の技術として予め録音したものを合わせたことからまるで映画音楽の様になって仕舞い、作曲家が作品を撤回した話しが為された。それからバーデンバーデンを第二の故郷とした経過を示して、その後のライヴエレクトロニックへの道に、パリのポンピドー大統領によってニューヨークとBBCで活躍していた指揮者を故国に呼び寄せたと、その電子スタディオIRCAMと今回の演奏団体の成立があったと説明した。
まさしく生誕百年を記念しての旅行としても魅力のあったものだろう。するとこちらもどうしてもその全貌を評価することになる。余儀なくされる。それが今回の訪問の目的でもあった。
今回聴いた「レポン」はブーレーズ指揮で聴いた気がしなかったのはその楽譜の指示にある様な今回の様な効果を得るのは初めてだったからだ。抑々その作品自体が音楽劇場を越えた音響劇場であるとするのがレクチューアの要だった。するとそういう体験も記憶がない。90歳お誕生日会のロート指揮などで7曲聴いたが、比較してもこれだけ演奏回数の多い作品にしては何故それほどに出来上がった感じがしないかという疑問が生じる。恐らく音響効果を得るためのライヴエレクトロニクスとして、その後の20年内の作品に比較すると効果が荒いという言えるのかもしれない。
実は往路に同じように作曲家で指揮者のピンチャーが同じアンサムブルをパリで振った録画を聴いていった。その印象はイントロダクションからして激しくエモーショナルな指揮をしているということで、その根拠は分からなかった。そして、指揮者ブレーズの演奏はどの作品を演奏しても同じでそれは自作自演に関しても骨抜きにしているだろうということだ。なるほどfでもpでもそこにはなんらエモーショナルな意味合いがないのがその指揮である。表情が示唆されていればいるほど急いで通り過ぎる。そういう人であり信条であったのは一貫しているということである。
それと同様に今回は同じ楽団のシェフであるブルーズという指揮者が振ると同様の現象で証明された。なるほど不器用そうな指揮でなによりもブレーズ作品やその指揮の特徴であるリズム的な精査が作曲者の様には出来ないのはなによりも気が付くところで、ブレーズの作品が成功したのもその自らの指揮の効果が大きかったと思われるところだ。それゆえに、余程上手な指揮者が振らないとブレーズ作品にある心地よさと繊細さは全く得られないと確信する。指揮が難しいことは作品にとっては必ずしも悪いことではない。(続く)
参照:
扱いの面白さが本命 2025-06-01 | 雑感
主の居ない打ち出の小槌 2015-01-26 | 音
先ずは一時間前からのレクチューアが素晴らしかった。関係者以外では二三人しか集ってはいなかったが、内容はとても良かった。話し手はSWRディレクターのベルント・キュンツィッヒという人でどこかで見かけた顔だが知己のない人だった。
SWFプロデューサーのシュトローベル制作ブレーズ作曲1958年「レポン」で、当時の技術として予め録音したものを合わせたことからまるで映画音楽の様になって仕舞い、作曲家が作品を撤回した話しが為された。それからバーデンバーデンを第二の故郷とした経過を示して、その後のライヴエレクトロニックへの道に、パリのポンピドー大統領によってニューヨークとBBCで活躍していた指揮者を故国に呼び寄せたと、その電子スタディオIRCAMと今回の演奏団体の成立があったと説明した。
まさしく生誕百年を記念しての旅行としても魅力のあったものだろう。するとこちらもどうしてもその全貌を評価することになる。余儀なくされる。それが今回の訪問の目的でもあった。
今回聴いた「レポン」はブーレーズ指揮で聴いた気がしなかったのはその楽譜の指示にある様な今回の様な効果を得るのは初めてだったからだ。抑々その作品自体が音楽劇場を越えた音響劇場であるとするのがレクチューアの要だった。するとそういう体験も記憶がない。90歳お誕生日会のロート指揮などで7曲聴いたが、比較してもこれだけ演奏回数の多い作品にしては何故それほどに出来上がった感じがしないかという疑問が生じる。恐らく音響効果を得るためのライヴエレクトロニクスとして、その後の20年内の作品に比較すると効果が荒いという言えるのかもしれない。
実は往路に同じように作曲家で指揮者のピンチャーが同じアンサムブルをパリで振った録画を聴いていった。その印象はイントロダクションからして激しくエモーショナルな指揮をしているということで、その根拠は分からなかった。そして、指揮者ブレーズの演奏はどの作品を演奏しても同じでそれは自作自演に関しても骨抜きにしているだろうということだ。なるほどfでもpでもそこにはなんらエモーショナルな意味合いがないのがその指揮である。表情が示唆されていればいるほど急いで通り過ぎる。そういう人であり信条であったのは一貫しているということである。
それと同様に今回は同じ楽団のシェフであるブルーズという指揮者が振ると同様の現象で証明された。なるほど不器用そうな指揮でなによりもブレーズ作品やその指揮の特徴であるリズム的な精査が作曲者の様には出来ないのはなによりも気が付くところで、ブレーズの作品が成功したのもその自らの指揮の効果が大きかったと思われるところだ。それゆえに、余程上手な指揮者が振らないとブレーズ作品にある心地よさと繊細さは全く得られないと確信する。指揮が難しいことは作品にとっては必ずしも悪いことではない。(続く)
参照:
扱いの面白さが本命 2025-06-01 | 雑感
主の居ない打ち出の小槌 2015-01-26 | 音